下記の研究発表を行った。(写真は会場となった同志社大学寒梅館)
羽藤広輔:1950年代の吉村順三の著作にみる伝統観について,第60回意匠学会大会,同志社大学,平成30年8月
要旨:1950年代の建築界における伝統論争は,主に, 川添登(1926-2015)が編集長を務めた『新建築』誌上において展開されたもので,丹下健三(1913-2005)の作品と論考が掲載された1955年1月号を境に議論が活発化し,以降,「縄文的なるもの」の価値を提示した白井晟一(1905-1983)をはじめ,多くの建築家や評論家等が,伝統と創造の問題についてそれぞれの主張を行った。しかしながら,拙稿「1950年代伝統論争における和風建築批判と反論 -吉田五十八の事例に着目して-」でも触れたように,同論争の総括のされ方には不十分な点が多く,和風建築批判の実態やその反論について,あまり取り上げられて来なかったのは,その一例と言える。本研究で取り上げる吉村順三(1908-1997)ついても,当時,ニューヨーク近代美術館からの依頼を受け,その中庭に展示する書院造の建築の設計・現場監理を行い(「ニューヨークに建つ書院造」(1954)),高い評価を受けた一方で,古典建築をそのまま再現する計画のあり方について批判もあったが,吉村自身が1950年代当時,どのような伝統観を抱いていたのかについて,詳細な研究は報告されていない。他方,1950年代は,吉村の活動全体を考える上でも重要な時期と言える。なぜなら,吉村は1950年代に入る頃,独立後の設計活動を本格化させ,その後1963年に代表作「軽井沢の山荘」を発表していることから,同時期は,吉村がその作家性を確立していった注目すべき期間と考えられるからである。よって本研究では,1950年代における吉村の著作(エッセー,対談記事,作品説明文)を網羅的に調査することにより,1950年代における吉村の伝統観の展開を明らかにする。その際,『朝日ジャーナル』(1965.7)で発表された「建築と設計 私はなぜ新宮殿の設計から手を引くか」は,よく知られた文章であり,吉村の伝統観が多く含まれることから,参考として調査対象に加えている。
http://www.japansocietyofdesign.com/meeting/mass60_info.html